• 文字のサイズ小
  • 文字のサイズ中
  • 文字のサイズ大

同経会|同志社大学経済学部

同経会報限定公開中
同経会Facebookはこちら
同経会の個人情報管理について、2022年10月より運用方法が変わり、大学での名簿管理となりました。
同経会報や各種案内をお送りするときはこの情報を使います。
ご卒業後に住所等ご変更の場合は下記ボタンより登録変更をお願いします。
住所変更連絡フォーム
WEB名簿登録のお願い
下記の「WEB名簿」は会報送付用ではなく、同経会員に公開するものとなります。ご利用の際はご登録をお願いします。 WEB名簿の登録はこちら
ホームページのWEB名簿閲覧
同経会への情報掲載はこちら

新着情報

HOME  > 先輩から「就職体験記」が届きました。

先輩から「就職体験記」が届きました。

体験的人生の歩き方

高橋 健治

 小生の会社生活は通算45年でした。最初に勤務した山一證券は、入社29年目の秋、突然、自主廃業し、失業の憂き目に遭いました。当時51歳で、おいそれと再就職できる年齢とも思えず、目の前が真っ暗になりました。部員の再就職探しに目途がついた頃、小生も奇跡的に東レに再就職することができました。そして、苦難を乗り越えたことで、以前より物事を前向きに、ポジティブに考えるようになりましたし、変化に富んだエキサイティングな人生にもなったのです。

 こうした経験を踏まえ、45年の会社員生活で学んだこと、感じたことを今の若い人たちにお伝えし、「就活」「生き方」に少しでもお役に立てればと考えています。高度成長時代と違って、「失われた20年」時代の「就活」は、大変なことでしょう。小生、かつて、ある国立大学の大学院で講義する機会がありましたが、そこでも、ある学生から「就職するとすれば、これからどのような業種が良いでしょうか?」と尋ねられました。確かに、今、就活の若い人にとって、自分が将来に亘って託せる企業はどのような業種かは切実な問題でしょう。数年前、有名大手家電メーカーが相次いで巨額の赤字を出したことを見ると、かつて就職人気企業であったことが嘘のように思えます。

 では、若い人は、どのように「就活」、「生き方」を考えるべきでしょうか。

 もし、自分が今、高校生や、大学生であったら、45年の経験を踏まえ、以下の10項目に留意して「就活」「生き方」を実行するに違いないと思います。しかし、それは当然ながら「叶わぬ夢」です。その代わりに、若い人にアドバイスすることは出来ます。集約すれば、以下の10項目になります。

  • (1)日頃から世の中の変化、動きに対する感性を磨く
  • (2)人生は「選択」の連続。迷った時は、自らの価値観、目標にそって選択
  • (3)高い目標を実現しようとするなら、ある程度、リスクを許容
  • (4)企業の選択は「自分が成長し、能力を伸ばし、活躍できるか」を判断基準に。現在の人気企業、業種が20~30年先まで存続できる保証はない
  • (5)学力とは、学校卒業時の学力ではなく、卒業後も学び続ける力
  • (6)専門は、出来れば「複数」持ち、自分の市場価値を高める
  • (7)上司、先輩を見て、現在の自分に、何が欠けているかを知る
  • (8)友人は財産。交友を広く
  • (9)海外経験は、グローバルな視点、判断基準を得る
  • (10)世の中、人の役に立つことを

 世の中は刻一刻変化しています。しかし、普段、その変化はなかなか気がつきません。ただ、普段、新聞を読んでいる人と読んでいない人とでは、変化の気づき方に少しは違いが出てくるでしょう。また、予想も非常に難しいものです。ちなみに、新聞や雑誌で、1年後の景気や株価、為替を予想している記事があったら、1年後に読み返し、予想が当たっていたか、検証してみると良いでしょう。予想の多くは外れるものです。しかし、「なぜ外れたのか」、を分析していると、自分が予想する場合、大いに役に立ちます。このようにして、世の中の変化、動きに関する感性を磨くことが必要です。

 また、これまでの人生を振り返って、「あの時、もう少し気をつけていれば、また、一歩踏み出す勇気があればチャンスをつかめたかもしれないのに」と思うことがあるはずです。特に、若いときは、あまりそうしたことに気がつかないものです。ところが、40数年の会社員生活をしていますと、他人のことがその本人より良く見えると感じることがあります。実際、「あの人は、せっかく目の前にチャンスが巡ってきているのに、それに気がつかず、掴もうとしない、もったいないな」と感じたことが何度かありました。自分より、他人のほうが良く見えることがあるものです。

 山一證券時代、「国際金融情報センター」(JCIF)に出向したことがあります。JCIFは大蔵省(当時)の所管だったので、小生の所属は山一本社の企画室付きとなり、出向しました。上司の企画室長は、出向が終わったら、小生を本社の国際金融部に勤務にさせたいようでした。出向先の名称、また、そこで経験したことを考えれば、上司としては当然でしょう。しかし、小生の人生目標は、調査業務を継続し、将来、調査部長になって活躍することでした。そこで、かつての上司である研究所の部長に小生が研究所に戻りたい旨を伝え、その上司から研究所の社長へ話をされ、さらに研究所の社長から本社の企画室長に小生を研究所に戻してくれるようお願いしてもらったことがあります。会社員としては、ありえないことであり、当時の直属の上司の意向を無視し、小生の希望をかなえたわけです。室長からは、「生意気だ」と怒られました。室長に対して本当に申し訳ないことをしたと思いますが、それでも、小生は、自分の人生設計を変えることなく、わが道を進むことができたのです。

 小生は、就職に際し、調査業務を希望していました。当時、企業で調査部があるのは銀行か、証券会社でした。証券会社は、離職率が比較的高く、入社2年後には、3割程度離職するのが一般的でした。一方、銀行の離職率は低く、安定的な就職先と見られていました。心配性の母親としては、当然「地元の銀行か、県庁」への就職を勧め、希望していましたが、小生は、思い切って証券会社を就職先に選んだのです。結果的に、証券に入社して2年後、希望の調査業務に異動でき、その後もほとんど調査業務を続けることが出来ました。確かに、銀行と比べて証券会社はリスクが高かったのですが、当時は証券と比べて銀行の方が圧倒的に人気は高かったし、ライバルも当然多かったと思われ、銀行に就職した場合、はたして調査業務が出来たかどうか、わからなかっただろうと思います。しかし、リスクをとったからこそ、当初描いた人生の目標が実現できたと言えます。一回しかない人生、平穏な人生を送るのか、波乱があっても面白い人生を送るのか、人の考え方はそれぞれ違うかも知れませんが、多少のリスクは覚悟して、自分の、たった一回の人生を歩みたいものです。

 小生が山一證券に入社したのは、昭和40年の不況からわが国経済が立ち直り、証券市場も立ち直りの兆しを見せている頃でしたが、一般的にはまだ「日銀特融を受けた会社」とのイメージが残り、就職人気はあまりありませんでした。しかし、大学時代、「証券研究会」と言うサークルで、証券業界の実情を知っていた小生にとって、わが国は今後、「間接金融から直接金融へ」と時代が変わる、と言う考えがありました。また、日銀特融を受けた会社であり、また、そうしたことが将来再び起こるとは、考えられませんでした。実際、それからわが国は高度成長時代が続き、証券会社の業績も順調に拡大し、「我々は、底値を買った」と同期でよく話したものです。

 それが、まさか、30年足らずで自主廃業するとは思いもしなかったのです。このように、20~30年と言う年月は、どのような変化が起きるか分からないもので、今、人気業種と言われていても、将来も続く保証がない、と考えるべきでしょう。

 したがって、将来、その会社がどうなるかよりも、その間に、自分が成長でき、専門能力、スキルを身につけ、社会に通用する能力を身につけることが出来るかどうか、を重視すべきだと思います。

 山一證券には、不思議なことに、感謝こそすれ、恨む気持ちはあまりありません。「日本経済研究センター」をはじめ、3回も出向の機会をもらって小生を育ててもらい、成長させてもらったからです。入社前に希望していた調査業務に長く携わることができ、充実した会社人生を送っていたのです。何とか再就職できたからそう感じるのかもしれません。あのまま失業していたら、こうした感謝の気持ちはないでしょう。平穏に会社人生を送り、無事退職された人から見ると、自主廃業した会社に感謝するとは、信じられないかもしれません。

 世の中は日々変化して行くものです。以前勤務した会社でもみられたことですが、高学歴の人の中には、会社で日々の勉強をおろそかにし、知識レベルがあまり向上していない、と感じる人が何人も見られました。高学歴が会社で通用するのは、ほんの一瞬です。学歴に甘んじることなく、日々、研鑽し、実力を蓄えた人が真の実力者、学力の高い人であると思います。

 自分の専門分野を持つことは、仮に会社が倒産しても、新たな就職をする場合に大きな力となります。そして、小生がもう一度学生時代に戻ることが出来たなら、英会話にももっと熱心に勉強していたと思っています。ただし、英会話が出来ることは、それだけでは専門とは言えず、単なる通訳でしかありません。英会話以外の専門があって、なおかつ英会話が出来れば大いに役立つと思います。また、専門はひとつだけでなく、複数あれば、さらに役立つでしょう。小生は、エコノミスト業務を長くしていましたが、アナリスト業務も経験し、「日本証券アナリスト協会検定会員」の資格も持っていましたので、本社の経営トップから、一目置かれ、IR室に異動するきっかけともなりました。

 調査業務を始めた頃、5年、10年上の先輩に優秀な人がたくさんいました。そこで、その人の文章力、プレゼンテーションの長所を学び、今の自分に何が足りないかを知り、手本としたのです。

 出向を3回、また、失業、転職を経験したこともあって知人、友人は多い方だと思います。何か困ったとき、仕事にだけでなく、私的な相談にも乗ってくれる友人は頼もしいものです。

 もともと英語が好きでなく、証券会社に入社したのですが、国際化の時代を迎え、小生も海外出張や海外駐在をすることとなりました。海外駐在は、イギリスのロンドンで2回、合計8年、海外出張は、41カ国に及びました。結果的に、そうした経験が自分のものの見方を大いに鍛えてくれ、広い考え方をもてるようになったと思います。

 失業、転職を経験して、自分自身、大きく変わったと思うことがあります。それは、いろいろな会の幹事を引き受け、会を開催することです。以前は、幹事を逃げていた感がありますが、最近は、自ら作り、会を開催しています。例えば、長らくななかった山一證券の同期会も、立ち上げ、毎年開催しています。特に、開催に当たっては、欠席者の近況コメント集を出席者に配布していましたが、最近では、出席者にも近況を書いてもらい、欠席者を含め、全員に送っています。これまで、欠席が続いていた同期も、全員の近況を知ることが出来、さらに出席者の集合写真も送ったら、大いに感謝されました。

 このように、失業を経験したことで、少しでも皆さんに喜んでもらうことを行うようになったのです。若い人には、そうした考えは、今は理解できないかもしれませんが、40年以上会社員生活を送ったものの考え方として知ってもらいたいと思います。

 また、会社生活を終了した後、日本防災士機構の講義を受け、試験に合格し、「防災士」の資格を取りました。そして、居住地の自治会の自主防災本部専任委員の一人として活動しています。さらに、居住地の「歴史愛好会」にも加入、メンバーが順に講師になって研究したことを発表し、史跡の見学会などに参加しています。これによって、これまで疎遠だった地元の人たちとの交流が始まり、新たな世界が広がりました。幾つになっても新たなことに挑戦し、社会に少しでも貢献できることは幸せだと思っています。

以上

プロフィール

2017年3月現在

高橋 健治 氏(70歳)

経歴
1969年 3月 同志社大学経済学部卒業
1969年 4月 山一證券(株)入社 同年6月 大森支店配属
1971年 6月 同         調査部企業調査課
1974年 4月(社)日本経済研究センター(JCER)出向
1976年 4月 山一証券経済研究所 経済調査部
1980年 1月 日本国際投資銀行出向(英国・ロンドン)
1982年 1月 山一証券経済研究所ロンドン事務所
1983年 6月(財)国際金融情報センター出向
1984年10月 山一証券経済研究所 経済調査課長
1990年 4月 同         経済調査部長
1990年 9月 山一証券経済研究所(ヨーロッパ)社長(英国・ロンドン)
1995年 7月 山一証券経済研究所 経済調査部長
1998年 1月 山一証券経済研究所 自主廃業に伴い退職
1998年 3月 東レ経営研究所 産業経済調査部長 兼 東レ(株)経営企画室主幹
2002年 7月 東レ(株)IR室次長 兼 東レ経営研究所 チーフ・エコノミスト
2004年10月 東レ経営研究所 常務理事 特別上席エコノミスト
2014年 4月 退職    

政府委員等
2001年3月~2007年9月 総務省統計審議会 専門委員
2002年8月~2004年8月 大学評価・学位授与機構 経済学系研究評価専門委員会 委員
2006年8月~2012年3月 内閣府官民競争入札等管理委員会 統計調査分科会 専門委員
2012年4月~2014年3月 大阪大学大学院国際公共政策研究科 招聘教授
以上

ページのトップへ